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30円で買った『イギリス人はおかしい』を半分ぐらい読んだ

リドリースコットのお屋敷ではドアノブやプレート、水道の蛇口や窓のハンドルにまでゴールドかコッパーを使っているそうです。消耗の激しい部分にイミテーションを使わないなんて正気じゃないですね。でもその手の生活習慣の結果としてあーゆー映画が作られるんだと思うと、正直日本人では勝てる気がしません。もちろんスコットの脳髄は小池一夫と大して変わらないんですが、ディディールのツラが豪華で腹立ちます。所謂「食ってるもんが違う」ってやつで映画的記憶に配慮した挙句に別に書割でも大して表現が変わらないであろう邦画の伝統と格式についせき込んでしまうます。つまり「鈍い意味」って映画においては予算でしか実現しないんじゃないのかと思うと同時に、じゃあ金をかけて何を見せるのかという課題がそれを達成する最大の動機足り得るのではないかと。「芸能人のかわいこちゃんは実物を生で見ると1.5割増し」、という事からもわかるように、値段の高い服を役者に着せてもカメラに映すとようやく普通の値段の服に見えるだけです。でもそれはリドスコだって同じ条件です。ということはなにかこの問題を回避するうまい方法を自家薬籠中にしているわけで、結論から言うと題材でそれを実現するというかなり単純な人なんだと思います。つまり、虚構の実際問題としてバカ高いディティールを物語にぶち込めばいいだけの話であって、高級なモノを高級なまま見せる、見せれる映画ばかり撮ってるとしか考えられない、というかそれ以外のはあんまりねぇ。基本的にのっぺりした演出家だし。もちろん語りの水準ではガチンコを書いているだけの監督ですが、そのガチンコが行われる場所が、中世の貴族であったりハーレムの成り上がりであったりそしてあらゆる最先端技術が投入される戦場であったりするのは、「高価」が「高価」のままでいられる意味空間であるからに違いありませんかどうかはわかりません。


(『プロヴァンスの贈りもの』では実際にリドスコの別荘が舞台として選ばれていて、そこで監督の分身たるラッセル・クロウが調子こくのは本当にゲロですが、それは【「高価」が「高価」】よりいっそう小ずるいセルフイメージの氾濫ぶりにあるんだしょ?)


シネフィルは基本的に初期三部作しか認めないらしく、そうでない僕はその偏狭さにイラついた振りをしてみたりしてみたんですが、上記のように考えてみると、その主張にも一定の理解をしてみたりしてみなかったりできます。

初期三部作は高価でないものを描いて、しかもそれが見世物として機能したからです。
必要なモノはスペクタクルであり、それはSFを利用する事によってモノの来歴を断ち切り現前し、故に歴史を失って映画史に刻印される。共時的な時間と通時的な時間がしかしその根っこの部分で反転している事の証左のようなキャリアなんだと感じ、本人の保守性がそれに貢献するという羨ましくも野蛮なエゲレスの階級社会に溜息を洩らしましたとさ。


「高価なモノ」に意味か、もしくは「意味の無さ」に意味が必要なんだろう。ディティールから見れば。

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借りぐらしのアリエッティ

ハルさんは処女

終わらない、終われない、終わる必要が無い

『河童のクゥと夏休み』見た。

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べんじゃみんバトン

誰か監督に言ってやれよ。
「お前のハリケーンのモチーフってダサいわ寒いわ機能してないわウンザリだよ。より正確に言えば機能してない事を誤魔化せる位には機能している俗情との結託振りにウンザリだよ。」

(前半はそれなりに楽しんだけど)何が唖然とするって、フィンチャーのなかではパニックルームってありなんだって事がこの映画で明らかになった点w。

人が悪い、とか意地が悪い、という評価を勝ち取る人って、大体このパターンで呆れる。(死後文とかよー)
この監督の作家性ってミやダイあたりの慰み物に丁度良い。

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ストレンじゃーい!

管理パスワードようやっと見つけたw。

無皇刃譚を映画館で見れたのは僥倖でありました。御多分にもれずProjectitohのブログでこのアニメ映画の「存在自体」wを知ったわけですが、確かに冒頭が素晴しかったです。個人的に、高山は肌に合わない事が多いのですが(監督作も脚本も)、これは良かった。悲劇とメロドラマのギリギリのラインに作劇が成立していたからです。高山脚本の露悪性は、(常に悲劇をメロの水準に堕落させる類の)客観性なるものの存在に拠っていると思うのですが、この映画の場合は、それは言語の問題として提出されていました。なぜ客観性が露悪の裏表になってしまうのか常々疑問だったのですが(例えばブルーフレンドの鼻で笑える悲劇っぷりを思い出して下さい)、これはおそらく我々虚構の受け手は、まず前提として、虚構は、もしくは現実は、単に理解可能な物として存在しうると思っているからではないでしょうか。ここで思い出すのが、異なる言語圏に属する人間を、同一のコミュニケーションの俎上に載せてしまうイデの力です。もしくはオーラの力です。御禿様ほど、この受け手の有する誤解を利用しつくして作劇を構築する人は、なかなかいないでしょう。思えばイデ最終話でふと言葉が通じていることを観客に示したり、リーン最終話で特攻隊と米軍人が言い争ったり・・・。(あ、この対比だと、やっぱイデの方が支持を受ける理由が解るよね。・・・多分言葉における最悪の意味でも信者であるところの俺は、この見方に与しないけどね。)まあとにかくストレンジャーは最後まで言葉が通じないからこそ、そこに共通の何かを見出して戦う男たちのドラマが最高だったって感じ。言葉が通じてしまう事でよりグロテスクに個の差異が際立つ禿作品とはまた違った面白さがありましたとさ。(書くの飽きてなげやり)

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やっぱ貨幣っての?カへぇー

根拠のない悪などというラカニアンの先走り汁(斎藤たまきンね、まあファンだけど。)はスカっと無視してノーカントリー見るのが吉だとは思うのですけれど、先走りにはそれなりに根拠があるので、ということはそれはやはり「根拠のない」悪を論じるのは不適切である様な気もするのですが、それはさておき、貨幣経済って観点から見なきゃ面白くないみたいですね、この映画。で、文句を言っといてなんですけれど、やっぱ自分も根拠のない悪みたいな見方をしてました。桐野夏生のアイムソーリママと比べて全然つまらん、と。桐野なら(無)根拠にまつわる滑稽さまで描けてるから全然良い、と。でも2回目見たらそれなりにおもしろくて、バリバリの唯物論って感じで納得は出来ました。前のエントリで「アントンは国分徹郎」なんて書きましたが、普通に考えて国分徹郎はベル保安官ですね。


(人情派の元エリート医師である「Dr.クマひげ」こと国分徹郎は、人間交差点みたいな意味、蓋然性に守られて物語の主人公に収まっています。しかし最終回では、多くの人間の生死を目撃してきた医師とは思えないほどのナイーブさを発揮し、号泣します。治した患者が交通事故にあうからです。事故死には生死のドラマ、つまりは意味が存在せず、ただ残されたモノの傷痕があるだけだからです。いや、傷痕にまつわるドラマがあればまだ救われるのですが、ただの突発的な事故死なので、国分は号泣するのです。「交通事故で、交通事故で死ぬのだけはやめてくれー!」みたいなことを絶叫してました。・・・手元にないので細かいところは間違ってるかも知れませんが、大体そんな感じの漫画です。・・・その叫びで漫画が〆られていたので読んだときはちょっとびっくりしました。・・・それに笑っちゃったよ。)


まあアントンとベルを正確に分けて論じる必要は感じません。ただの表裏ですから。とにかくこの手の物理的な露悪性ってこの時期いろんな媒体で流行った気がします(disになるから作品名はあげない、メンドイ)。ノーカンはこの手の詰らない袋小路の上澄みでしょう。初見で理解できなかった自らの「マルクス主義から遠く離れて」振りを形ばかりに恥じようと思います。

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アントンシガーはテキサスの国分徹郎

アントンシガーはテキサスの国分徹郎

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無音で嘔吐する訓練、始めました!

おひさしぶるぶるぶりぶりざえもん。金原ひとみの影響で噛み吐き「体験」⇔「を」しようと思い立つも、AVのディープキス見るだけで吐き気を催す体質が、まったくサッパリ実行許さず、途方に暮れるもひとしおで、流す涙はそば粉色。YES!お宝ジャンヌダルク

のーらん♪ランとSDキャラ

「ダークナイト」は映画館でもDVDでも見ています。そしてそのどちらでも、また何度見ても吹き出してしまうのがレイチェルの吹っ飛びシークエンスです。映画館でも我慢できずにクスクス笑いそうになってしまいました。手で口を押さえました。あの完全無欠な美しいノリツッコミは、なかなかそこらの映画ではお目にかかれません。家では遠慮せずに、「げらげら、くすくす、チョーうけるんですけど。マジ吹くんですけど。」(w藁w藁w藁w藁w藁)って感じで楽しんでいます。というか全編見るのが面倒くさいのでそこだけリピートしてます。のーらんラン♪さんがいつも題材に選ぶ神なき世界のブラックジョークは、その提出の仕方の深刻さの度合いに応じて、私の爆笑を誘います。もう「のーらん!八の字顔のキャリアウーマンを完璧なタイミングで爆殺しようと情熱を注ぐ君に、僕は敬意を表する!」状態です。実を言うと自分は、入廷し隣に座ったハービーに振り向くレイチェルのファーストシーンを見た瞬間に、殺意を肯定しました。別に死ねとか殺されるべきとかではなく、映画の必然として殺されて当然だと思った、という事です。"Look at me"と野太い声を出す(出さざるを得ない)ジョーカーさんの、見られるように努力する生き様と、レイチェルさんの、見られるように無自覚に生きる様は、対称とは全然言うつもりはありませんが、殺されても文句は言えません。むしろあの歩き方、腰の振り方、目をつむっての振り向き方!は、殺人者に「弱者こそが私の暴力を引き出したのだ」、という魔術的思考を引き出すに十分です。僕はそう思いました。実存からではなく美学的な殺意の発動を感じました。そして自分はあの爆殺シーンにこそSDキャラのあるべき姿を認めるのです。

R 「Harvey,just in case,I wanna tell you something,okay?」
H 「Don't think like that.They're coming.」
R 「I know they are,but I don't want them to.I don't wanna live without you, and I do have an answer for you.My answer is yes.」
H 「no!no!no! Not me! Why are you coming for me?」

H 「no!Rachel!Rachel!No!No!」
R 「Harvey.Okay. Harvey, it's okay. It's all right. Listen. Somewh--」
☆(珈琲吹き出しポイント)

★印の瞬間にレイチェルのSD化を幻視しました。そしてこれは結果としてのそれであります。目的としてのそれは個人的に認めません。バカ姉弟の成功をここから説明しようと思いましたが、面倒になったので終わります。

超重いライト [小説]

人から勧められて結構前に埴谷の「死霊」を読んだんですけど超絶ラノベって感じで面白かったです。作家が制作に掛けた時間を考えると経済効率が悪いような気もしますけど賞ももらってるし文庫にもなってるからOKでしょって話はどうでもよくて(リアルタイムで追っていない読者から見りゃ効率いいのか?)、「1968」を立ち読んでみたらハスミ対談では埴谷の事を「単なるバカ」とか「星菫派w」とか「構築する意思もない」し「残るのは人間関係だけ」とか言われていて、こちらとしては「人間関係だけだから良いんだ」、と擁護の一つも言いたくなると同時に、しかし普段の自分の言い方に従うとそこは「構築しない、という否定を経ていない無意識なんて糞」とか言わざるを得ないんで結局擁護は苦しいんですけど、まあそれはそれとして、確かに文学史的には偉いと思わないけれど、ラノベ史的には偉い気がしてくるので、そう読めば「反映」としてありなんじゃないか、とか思うわけです。ってか正直、「自同律の不快」ってジャンル物の自己言及性に乗ったほうが題材としてではなく語りとして表現できる気がするんですけど、まあ一般には題材のが上等に見えるだろうから駄目なのかな?あと、全然違う話なんですけど、「アンダーカレント」描いた豊田徹也ってそんなに物語に対する握力って強くないってかブッチャケ弱いと思うんですけど、それは否定すべき事じゃなくて、弱く長く握り続けることで融解するカロリーの低い「何か」が漫画になっている気がして面白い表現だと思うのです。埴谷にも感じます。これを「意図せざるジャンル物」と個人的に分類してます。つまり「人間は誰でも人生という一冊の小説が書ける」という屁みたいな紋きりは間違っていて、正確には一冊の小説じゃなくて一つのジャンルと思うべきで、つまりは人生に小説なんて書けるわけ無いです。
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